生もと造りの日本酒
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第3話 初期の人々
コーボ井戸爺さん。三良右衛門(さぶろうえもん)さんが創業した大七は、それからどうなったの?
井戸爺さん三良右衛門が分家した時、5歳の息子がおった。それが二代目の伊兵衛じゃ。伊兵衛は父の創業の苦労を、逐一見ながら育った訳じゃ。そして三良右衛門が亡くなった時、数え29歳で家督を継いだ。 伊兵衛には幾つも名前がある。まず通称の伊兵衛、雅号の宗儀(そうぎ)、そして墓石には三之亟富杲(さんのじょうとみあき)と刻されておる。
コーボへぇー。サンノジョウトミアキ?お侍みたいだね。
井戸爺さん縁戚の武家である田丸家と関係があるらしいて。詳しくはわからんがの。伊兵衛は昔の太田家当主の中で最も長寿を授かった。その長い生涯の間には色々な事があったのじゃ。時には辛いこともな。 天明三年の四月八日、伊兵衛が36歳のことじゃ。この日、浅間山に大噴火が起こった。噴火はますます激しくなって四ヶ月余りも続いたのじゃ。そして七月には、この世のものとも思えん程の大爆発が起こった。噴煙は空を分厚く覆って、各地に灰を降らせた。このため信州から東北まで大凶作となってな、深刻な飢饉が発生した。米が無いので酒造りも厳しく制限された。伊兵衛にとっては本に辛い試練の時じゃった。この頃妻も亡くしてしもうた。
コーボ本当にとっても大変だったんだねえ。クスン。
井戸爺さん悪いことばかりではないぞ、コーボや。寛政五年に、ここ竹田町に用水路が完成したのじゃ。この地は三方を丘に囲まれて、用水に難のある処もあったのじゃが、我が二本松が生んだ本邦随一の算学者、磯村文蔵の測量のお陰で出来たのじゃ。ワシら井戸もちょっと肩の荷が下りた訳よ。 さて、文化年間に入ると豊作が続き出した。試練は終わりを告げたのじゃ。遂には米が余って、逆に酒造りが奨励される有り様じゃ。「文化三年の勝手造り令」、酒屋にとっちゃバブル景気じゃの。安い米をふんだんに仕入れて、酒造株の裏付けなしに自由に酒が造れるようになったので、我も我もと競って酒造業に参入する者が現れたらしいて。 伊兵衛は好景気の中で後半生を豊かに送れた訳じゃ。肖像を見ると、品が良く穏やかな表情の旦那さんじゃな。妻子に先立たれるなど辛いこともあったが、風流を好んで、貞女と謳われた後添いと幸せに暮らしたのじゃ。 三代目の太田七右衛門定安が家業に入ったのは、文化文政の長い豊かな時代が始まった頃じゃった。
コーボそれじゃ、ぼんぼんだね?
井戸爺さんまあ、いわゆる三代目というやつかも知れん。腕の良い画師による立派な肖像画が残されておるが、人懐(ひとなつ)こそうでなかなかお洒落なお人だった様じゃ。初代の厳しい精神性とは違った、どこかゆとりのある遊び心を感じるな。 この七右衛門という名前は田丸家に由来するらしいが、この後代々太田家当主に襲名されていくことになる。 三代目晩年の天保年間は、それまでと逆の酒造制限が課されて、苦労もしたらしい。 最晩年の頃、二本松の太田家共通の始祖である太田重堅十蔵(おおたしげかたじゅうぞう)の二百回忌で、当時の四家で法要をして五輪石塔と献灯を設けた。各太田家が皆そろって繁栄した、良き時代のモニュメントじゃな。

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