シリーズ:コーボ君、歴史探訪

第4話 中興の祖、四代目七右衛門

井戸爺さん コーボや、いいところへ来たな。木に登ってあの花梨の実を取って来てくれんか。ひとつだけ高い梢(こずえ)の先に残って、どうにも届かんのじゃ。
コーボ いいとも!(スルスル)ヨイショッと。ほらどうぞ。花梨といえば、四代目だよね。
井戸爺さん そうじゃ。四代目七右衛門定安(さだやす)は、安積(あさか)郡日出山の遠藤儀右衛門の第四子で、三代目七右衛門の長女、キクの婿(むこ)となったお人じゃ。 四代目の時代に家業は大いに隆盛してな、町年寄並の褒誉(ほうよ)を受けて活躍し、武家衆や殿様の覚えもめでたかった。 当時は宗家の長左衛門家も全盛時代で、八代目長左衛門恭格(やすただ)は三百石高郷士町奉行格の待遇を賜り、十万石領民の長として、威勢隆々としておった。一族そろって栄えた良い時代じゃったのう。 四代目はこんな逸話を残しておる。この竹田町は過去二度の大火に見舞われておるが、最初の大火の時のことじゃ。 万延元年三月二十七日、竹田町に出火した火災は根崎に類焼し、焼失戸数六百五十八戸という大火災となった。 この時、四代目は藩内の武士と土湯(つちゆ)温泉へ湯治に行く約束をしておった。こんな折りに行かんでもと止める家族に対し、武士との約束は守らねばならぬと悠然と出掛けたそうじゃ。当然家族は気を揉(も)んでいたが、四代目には目論見(もくろみ)があった。土湯街道あたりでまだ二本松大火の情報が伝わる前に大量の材木を買い付けたのじゃ。当人が帰るより早く、太田家の焼け跡には山のように材木が届き、再建は一番早かったそうじゃな。
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コーボ すごいや。そんな一大事の時に、腹が据わっていたね。
井戸爺さん 四代目も当主として一番脂の乗った年頃じゃったな。 もうひとつは、コーボ、お前もよく知っている花梨のエピソードじゃよ。 殿様の別邸である宮下御殿の御庭にこの花梨の大木があった訳じゃが、ある時落雷で真二つに裂け、半身が大きくえぐられた形になってしもうた。これを四代目が、時の九代丹羽長富(にわながとみ)侯より戴いてきたのじゃな。何でも、雷が一度落ちた木には二度とは落ちんだろうと験(げん)を担いだのと、『金は借りん』ちゅうことを子孫に伝えたかったらしい。この花梨を中庭に植えて、『内に花梨(借りん)』『外に樫(貸し)』を太田家の家訓にしたものよ。
コーボ じゃあ、家の外には樫の木があったんだね?
井戸爺さん そういうことじゃ。外に貸しと言やあ、この頃には殿様への御用金用立ても多かった様じゃから、あるいは下賜(かし)された花梨の木は、その褒美だったのかも知れんのう。 四代目のことは「二本松寺院物語」にも「二本松市史」にも書かれとる。注目されとったのは間違いないな。 明治初年の頃、二本松藩庁の役人が戯(ざ)れ言で城下の有力町人を動物に見立てた、「御城下十人衆」というのを作って評判になったそうじゃ。十人衆の筆頭に語られた八代目太田長左衛門は「駱駝(らくだ)の長左衛門」という具合で、四代目は四人目に「じゃじゃ馬七右衛門」と名付けられとる。まあ、誰にも止められん抜群の行動力と、それでいて憎めない人柄のせいかのう。 さてと。この花梨の実は砂糖漬けにするとしよう。食べると嗄(しわが)れ声も直るんじゃよ。