シリーズ:コーボ君、歴史探訪

最終回 そして、現代

井戸爺さん コーボ、何をお祈りしておったのかな?
コーボ ウン。僕、考えたんだよ。大七の今があるのは、ご先祖様や杜氏さん達、みんなのお陰なんだなって。
井戸爺さん 感心なことじゃ。八代目も亡くなり、八代目の下で50年も酒造りを支えた伊藤勝次杜氏、そして金田一政吉杜氏も蔵で亡くなった。ほんに皆の尊い努力のお陰で今があることを忘れてはいかん。 さて、九代目太田精一、のちの七右衛門が当主となったのは昭和五十七年、55歳のことじゃった。 時あたかも地酒ブームの始まりでな、酒と言えば特級、一級、二級だけという窮屈な制度に風穴が開いて、吟醸酒や純米酒なぞが人口に膾炙されつつあった。そこで九代目は初めて「大七生もと」を世に問うたのじゃ。それまで言わば蔵の隠し味として使っとった生もとを銘柄にして、檜舞台に立たせた訳じゃ。 それから平成の世になり、時代はどんどん変わっていった。外国も日本も垣根がのうなって、世界中の物や商売人が日本に押し寄せてくるようになったのじゃ。そんな中では、大七もしっかりと自分の暖簾に磨きをかけていかにゃならん。
コーボ ノレンを磨くって?どんなことをしたの?
井戸爺さん ご先祖様や八代目の思いを受け継いで、自分たちはどんな造り酒屋になりたいか―それに向かって精進するということよ。もちろん九代目は生もと造りに邁進(まいしん)したのじゃ。 生もとを柱に次々と新しい酒造りに挑戦したり、米をより良く知るため蔵人達による米作りを始めたり、そして大七自慢の超扁平精米技術の開発に着手したり。九代目は石橋を叩いて渡る慎重な性格じゃったが、新しい時代の種はこの頃から蒔(ま)かれておったのじゃな。しかし、次の時代に移る前に、大きな悲しみを乗り越えねばならんかった。
コーボ 名杜氏さんたちが二人とも亡くなったことだね。クスン。
井戸爺さん そうじゃ。そして十代目が当主になったのはその直後の平成九年、37歳の時じゃ。 悲しみを力に変えて、皆よう頑張ったぞ。昇格した佐藤孝信杜氏を中心に、大七は生もと造りの純米大吟醸で初めて、全国新酒鑑評会金賞を獲得した。歴史に名を留める快挙じゃ。じゃが二度目の受賞を最後に、鑑評会へ挑むのは止めた。もっと先を目差さなければならんと気付いたのじゃ。 コーボや、この日本でも、日本酒の飲み手が多くはのうなって、酒屋にとっちゃ厳しい時代じゃが、その代わり今まで以上に良い酒を待ってくれとる人々がおる。大七はその人々に応えねばならんのじゃ。なぜなら大七には先人達が遺してくれた生もと造りがあるじゃろう。これこそ日本が世界に誇れる大切な宝物なのじゃよ。この宝物を受け継いだ大七には責任があるのじゃ。 平成十五年に出した妙花闌曲はその決意表明と言えるじゃろう。世界に出して恥ずかしゅうない、最高の日本酒を造っていくのじゃ。十代目は創業二百五十周年の節目に、五年越しの新社屋建設や宿願の社史編纂を成就した。 これからはいよいよ世界に向けて、コーボ、お前達が頑張るのじゃぞ。
コーボ そうだね!これからもっともっと頑張るよ。ありがとう。