シリーズ:郷土の宝物語

第10回「二本松藩のエピソード/2」

コーボ 生もと君、二本松藩の話、今日も聞かせてね
生もと いいとも。家康公によって再び大名に返り咲いた丹羽家は、外様ながら将軍家に忠誠を尽くし、信頼が厚かった。こんなエピソードがあるよ。参勤交代の折り、丹羽家は奥州の外様諸藩が二本松藩の前を不穏な動きもなく通過するのを見届け、最後に江戸に登城して報告した。江戸からの帰郷は真っ先に戻り、また奥州諸藩が問題なく二本松を通過したことを確認して速馬で江戸に知らせたそうだ
コーボ へーえ。大事な役割を担ってたんだねえ
生もと そうだね。こんな話もある。二本松藩はかつて戦った伊達藩とは緊張関係にあった。嘘かホントか、伊達藩は二本松通過時には火縄銃の火縄に火を付け、銃を構えて通ったというんだ
コーボ うわっ! 強大な伊達藩と事を構えたら大変だ。おちおち眠れないよ
生もと そこで二本松藩は城下に徳川秀忠・家光父子の廟所を造営した。さすがの伊達藩も他の大名達も、ここを通るときは籠を降り、刀を置いて参拝しなければならない。将軍家の位牌を戴くことが出来た信頼関係が、功を奏したんだ
コーボ ふーん。どうしてそんなことまで出来たの?
生もと 世の大名は、五万石以下が八割を占める。丹羽家の十万七百石は大きい部類だし、大名の格は祖先がどんな生き様をしたかだということを考えると、最大123万石の長秀公を祖先にもつ丹羽家は、なかなか偉いものだった
コーボ なるほど、ご先祖様にも感謝だね!
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生もと うん。丹羽家は実際の石高以上の格式あるふるまいが求められたし、将軍への忠誠心から公役負担にも喜んで応じた。そのため二本松藩の財政は次第に困窮してしまった
コーボ そりゃあ困った。それで二本松藩はどうしたの?
生もと 五代藩主丹羽高寬公が、儒学者の岩井田昨非を登用して藩政改革を行ったんだ
コーボ 以前の号で紹介した藩士を戒める「戒石銘」は、そのとき作られたんだね。それで財政は回復したのかなあ
生もと なかなかそうもいかなかったらしい。改革は幾度も繰り返されたけどね。九代藩主長富公は敬学館という藩校を作って教育に力を入れた
コーボ 大七の四代目当主が殿様から花梨の木を頂いたのは、この頃だったね
生もと よく知ってるね、コーボ君。二本松藩には酒奉行もあって酒造りを奨励したんだよ。 さて幕末の十代藩主長国公は奥羽越列藩同盟に参加し、新政府軍と戦ったが、明治元年7月29日、二本松城は落城し、その時あの『二本松少年隊』の悲劇が起こった
コーボ 少年隊、頑張れー! フレー、フレー!!
生もと 16歳のある少年隊員は、出陣の時お母さんから天保銭を三枚もらって身に付けた。お城の玄関に敵兵が隠れていて一斉射撃を受けたとき、天保銭は砕け散り、何と三枚目が辛うじて弾丸をくい止め、少年の命を救ったというんだ
コーボ 良かったね! クスン。母の愛が奇跡を呼んだんだね
生もと うん。敗戦後、二本松藩は一時『二本松県』になった
コーボ 色んなエピソードがあるね。二本松では節分の時、『鬼は外』とは言わない。『お丹羽外』にならないよう『おにそと』と叫ぶんだ。今でも郷土の歴史は生きてるんだよ!