生もと造りの日本酒
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第5話 苦難と奮励の明治期
コーボアレレ。井戸爺さん、何をしているの?
井戸爺さん井戸さらいをしてもらっとる。人の世の喜びも悲しみも、長い間に地面を透過して、こうしてワシの中にすっかり透明に浄化されて湧き出てくる。水底に届くほど汲み上げても、翌日にはまた元通り、水は満々と漲(みなぎ)ってくるのじゃよ。 ふう、これでよしと。今日は戊辰戦争の話からじゃ。 明治元年、二本松は戊辰戦争の戦場となった。長州軍が攻め寄せ、戦火が目の前に迫ると、町民達は塩沢街道を通って二本松藩の盟友であった山形の米澤へと苦難の逃避行を余儀なくされた。援軍の尽きた二本松藩は、とうとう十代の少年達からなる二本松少年隊まで出陣させたが、結局二日後、二本松城は落城したのじゃ。
コーボ大変だったんだねえ。大七は大丈夫だった?
井戸爺さん当家にも生々しい傷跡が残っとる。以前の仕込蔵の扉に「土岐(とき)軍分捕り」と小刀で疵をつけた落書があったが、あれはこの時のすさまじい分捕り合戦、略奪の生き証人だった訳じゃ。 コーボや、太田家には歴代当主夫妻全部の肖像画があるが、五代目だけは無いじゃろう。五代目太田長治は維新後間もなく、四代目より先に35歳の若さで亡くなってしもうたのじゃ。妻のみつも、後を追うように四年後に子供達を残して病死した。 戦争の被害は宗家もひどかった筈じゃ。宗家はその後酒造りを廃業してしもうた。
コーボボク、皆に頑張ってほしいなあ。フレー、フレー!
井戸爺さん大丈夫、これしきで負けはせんよ。両親共に早世した数年後の明治十年二月、長男で数え19歳の庄太郎が、祖父四代目の隠居により、六代目の家督を継いだ。程なく四代目は世を去ったから、六代目にとっちゃ、ほんに孤独な独り立ちじゃったろうの。 庄太郎、後の七右衛門定一は、若さで気負ったか、掛け貸しでどんどん売ったのが裏目に出、資金繰りに窮してしもうた。すると酒米を買い付けている米屋から、今後は現金でなければ売れん、と言われたのじゃ。当家の信用も落ちたものよと嘆いておると、本宮の本陣、鴫原家から嫁いだハルが、自分のべっこうの髪飾りや高価な着物類など、嫁入り道具一式を売り払ってお金に換え、米を買い入れる資金を作ってくれた。この心懸けに打たれた六代目は、酒造りにいっそう精進し、晩年に至るまで堅実経営で信用を高めたそうじゃ。 こんな逸話もあるぞ。明治二十五年四月に竹田町を襲った二度目の大火は、周囲に四十五戸もの類焼をもたらした。この時は六代目が火消し達に見舞い酒を振る舞ったため、火消し達が大いに奮闘して、太田家の隣で危うく火を消し止めたので、「大山(当時の酒銘)は酒で火を消した」と評判になったものじゃ。 六代目の時代には、江戸時代の株鑑札制度がのうなって、誰でも酒造業に参入できるようになった。素人衆も増えた訳じゃが、東北では酒造改良運動と称してな、酒造りを杜氏まかせにせず、自ら先進地の醸造法を学ぼうという蔵元も現れてきた。六代目が酒造りに熱心であった背景には、そういう時代の気運もあったのじゃろうな。

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