大七の歴史

社史概要

前史

大七の当主である太田家は、伊勢国(現在の三重県)より三人兄弟で、寛永年間(1624-1643年)に丹羽侯に随って二本松藩に来住しました。名峰・安達太良山の麓、日本三井戸の一つ「日影の井戸」をはじめとする自然豊かな名水の地です。太田家はやがて領内最高格の商人となり、明和の太田三郎兵衛好重、安永の太田長左衛門豊春らが家勢を大いにもり立てました。そして好重の子、三良右衛門が分家し、現在の大七酒造を創業するに至ります。

大七酒造の歴史

宝暦二年(1752年)、太田三良右衛門が独立し、現在の大七酒造を創始しました。以後、十代目の今日まで、日本酒の最も正統且つ伝統的な醸造法である「生酛造り」一筋に、豊潤な美酒を醸し続けています。創業時の酒銘は「大山」でしたが、近代の中興の祖である八代目が、歴代当主の襲名する七右衛門にちなむ「大七」に改称。この時代、昭和天皇陛下御即位式典(昭和3年)の御用酒に選ばれ、第16回全国清酒品評会(昭和13年)では最高首席優等賞、すなわち全国第一位を獲得し、名酒大七の存在は全国に知られるところとなりました。
明治末年、大蔵省醸造試験所によって山廃酛、速醸酛などの簡便な醸造法が発明され、全国に普及が図られました。八代目はいち早く速醸酛を試みたものの自らの理想を追求するには生酛が不可⽋と判断し、全国の酒蔵から生酛が消えていく中で、生酛造りの孤塁を守り続けました。大七は、近年の淡麗辛口ブームの中でも、あくまで生酛造りの力強い美質を活かす技術向上を追求し、全国新酒鑑評会史上初めて伝統技法の生酛造り純米醸造で金賞を受賞するなど、生酛造りの第一人者としての地位を確立しました。
大七は、独自に開発した超扁平精米技術、日本初の無酸素充填システムなど革新的な取組みを行う一方、新たな和釜の鋳造や木桶仕込み専用蔵の建設、さらには酒蔵の様々な⽂化の復活継承など、伝統の深化にも努めています。平成18 年には尾形義雄精米部長(当時)が、同28年には現杜氏の佐藤孝信が「現代の名工」表彰を受け、精米と醸造の両部門で「現代の名工」を生んだ唯一の蔵となりました。
普遍的な価値を志向する大七は早くから世界に目を向け、現在は欧米やアジアの20 を超える国々に輸出し、G8洞爺湖サミットの乾杯酒や欧州の王室晩餐会、そして各国の最高級レストランでの採用など、世界の檜舞台で高い評価を獲得しています。国内では「第一回ふくしま産業賞」で初代の最高位知事賞(平成28年)、「第七回ものづくり日本大賞」で業界過去最高の経済産業大巨賞を受賞(平成30年)するなど、新たなる名酒の歴史を刻み続けています。

歴代当主

初代 太田三良右衛門 栄親

1721年(享保6)〜1776年(安永5)
享年56歳

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太田三郎兵衛好重の子、三良右衛門は、本家がより大きく栄えたのを機に、1752年(宝暦2年)に32歳で現在の地に分家独立しました。当時の酒銘は「大山」です。
初代の肖像画は、黒の羽織、薄墨色の着物をまとった、全体に質素な印象です。傍らに脇差しと扇子とがあり、帯⼑を許されていたことを示しています。鋭い眼差し、意志的で精悍な表情に創業者ならではの気迫が感じられます。手にしている黒い数珠が特徴的で、信仰篤き人であったことが伺えます。この肖像画の上には、善性寺十九代住職による賛が書いてあります。

賛念誉宗護五十六歳畫像

居士旦暮信佛願 
居士 旦暮に仏願を信じ
馳情送想慕安養 
情を馳せ想を送り 安 養を慕う
坐臥至誠勵稱名 
坐臥 至誠にして称名に励む
心鏡元明不受埃 
心鏡 元より明らかにして埃を受けず
闍毘爐中得舎利 
闍毘するに爐中に舎利を得たり
勿疑棲神遊金池 
疑うなかれ、神を棲ませ金池に遊ぶことを
祇畫眞影遺後世 
祇だ真影を画きて後世に遺す
季孫稽首如在世 
季孫 稽首すること世に在すが如からん

二代目 太田伊兵衛

1748年(寛延元年)〜1818年(⽂政元年)
享年71歳

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三良右衛門が分家独立した時、伊兵衛は5歳でした。初代が亡くなった後、数え29歳で家督を継いでいます。伊兵衛は宗儀という号を名乗っていたと伝えられています。伊兵衛は近世の太田家当主の中で最も長寿を授かりました。
肖像画は、五三の桐の五つ紋の正式な羽織を着、脇差しと共に描かれています。この肖像画にも、短い賛が記されています。

嗜 酒 不 乱 酒を嗜みて乱れず
交 人 克 親 人と交わりて克く親しむ
三 寶 帰 敬 三宝に帰敬し
持 名 終 全 持名 終に全うす

三代目 太田七右衛門 定安

1786年(天明6)〜1845年(弘化2)
享年60 歳

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三代目から七右衛門の名が現れ、以後襲名されていきます。この名は太田家に縁ある武家の田丸家に由来するものとも言われます。肖像画には朱盃を掲げ持って微笑んでいる姿が描かれ、初代の厳しい精神性とは違った、どこかゆとりのある遊び心が伺えます。着物にも洒脱なセンスを感じさせる、典型的な三代目であったようです。三代目には男子がなく、長女に婿をとりました。

四代目 太田七右衛門 定安

1811年(⽂化8)〜1877年(明治10)
享年67歳

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安積郡日出山遠藤儀右衛門の子で、太田家を継いだ四代目は家業を大いに隆盛させ、最も財を築きました。公的にも町年寄並の褒誉を受け、公職につくなど活躍し、殿様を始め武家との付き合いも広かったと伝えられています。
こんなエピソードがあります。当家酒蔵のある⽵田町は過去2度の大火に見舞われていますが、万延元年の大火は焼失戸数六百五十八戸という大火災となりました。この時、四代目は藩内の武士と土湯温泉へ湯治に行く約束をしていました。こんな折りに行かなくてもと⽌める家族に対し、武士との約束は守らねばならぬと悠然と出掛けた四代目は、土湯街道あたりで、まだ二本松大火の情報が伝わる前に大量の材木を買い付けました。そのため当人が帰るより早く、太田家の焼け跡には山のように材木が届いたため、再建は最も早かったそうです。
また四代目は、殿様の別邸にあった花梨の巨木が、落雷で半身が大きくえぐられた形になったのを九代丹羽長富侯より戴いてきました。雷が一度落ちた木には二度とは落ちないだろうと験を担いだのと、「金は借りん」という意味を込めて、「外に樫(貸し)」「内に花梨(借りん)」を太田家の家訓とし、この花梨を中庭に植えたのだといいます。この花梨は現在もそびえています。

花梨の巨木
五代目 太田長治

(襲名前に死去)
1837年(天保8)〜1871年(明治4)
享年35歳

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明治元年、二本松は戊辰戦争の戦場となりました。戦火が目前に迫ると、町⺠の多くは二本松藩の盟友であった山形の米沢へ苦難の逃避行をし、城下では十代の少年達からなる二本松少年隊の悲劇も起こっています。二本松城が落城すると、町内には分捕り合戦、略奪が展開され、当家にも生々しい傷跡が残りました。
太田家歴代でただ一人、長治には肖像画が残されていません。四代目より先に、35歳の若さで亡くなったため、五代目は家督を継ぐことがなかったのです。早世の原因が、戦乱に因るものかどうかは伝わっておりませんが、敗戦後の荒廃を極めた状況で家業を守る困難が死期を早めたことは想像に難くありません。

六代目 太田七右衛門定一

1859年(安政6)〜1914年(大正3)
享年56歳

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両親が相次いで早世した数年後、六代目は19歳で祖⽗から家督を継ぎました。六代目は祖⽗の死で後ろ盾を失い、孤独な独り立ちを強いられることになりました。
若い六代目は苦労を余儀なくされましたが、ある出来事をきっかけに発憤し、生涯酒造りに打ち込んだというエピソードが伝えられています。ある時、原料米を買い付けている米屋から、掛けではなく現金払いにしてほしいと要求されたそうです。酒屋の信用も落ちたものだと嘆いていると、本宮の名門、鴫原家から嫁いだ妻のハルが、自分の高価な嫁入り道具一式を惜しげもなく売り払って、米を買い入れる資金を作ってくれました。この心懸けに打たれた六代目は、そのときから酒造りにいっそう精進し、晩年に至るまで堅実経営で信用を高めたということです。
六代目は、その後、町制が布かれた二本松町の町会議員なども数期務めつつ、晩年に至るまで自ら酒蔵の経営に専心しました。「二本松寺院物語」には、六代目から「七代の太田七右衛門に至って、銘酒『大七』は益々その品質を改良して名声大に揚がり、随ってその造石高も次第に多く、資産⼜歳々に増殖して同町内一二の富家を以て称せられました」と書かれています。


七代目 太田七右衛門 巳之松
1869年(明治2)〜1917年(大正6)
享年49歳

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七代目は婿養子として安積郡大槻村の酒造家岡部家から来ました。師範学校を卒業し、子供の教育、躾には大変熱心であったといいます。幹部候補として幾たびか従軍しており、第一次世界大戦当時の陸軍将校姿が写真に残っています。
晩年まで酒造りに専心した六代目の死を受け、七代目の家督を継ぎましたが、自身の酒造りの経験は乏しかったため、酒蔵経営はわずか三年間、大正3、4年に全国を襲った大腐造の嵐に巻き込まれて酒造りが思うに任せず心痛のうちに病気で急逝する最期となりました。

八代目 太田七右衛門 貞一

1901年(明治34)〜1993年(平成5)
享年93歳

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八代目は、七代目の急逝によって旧制安積中学を中退し、弱冠16 歳にして家督を継ぎました。その後、秋田、灘の銘醸地を訪ねては酒造りの研鑽に励み、昭和2年の福島県清酒品評会で第一位、昭和3年には昭和天皇陛下即位式典の御用酒に選ばれる栄誉を受けました。
そしてついに、昭和13年の第16回全国清酒品評会において最高首席優等賞、すなわち全国第一位を獲得し、名酒大七の存在は全国に知られるところとなりました。
明治末年に、それまでの生酛に替わって山廃酛、速醸酛などの簡便な醸造法が発明され、国策として急速に全国に普及が図られました。家督を継いだばかりの八代目もいち早く速醸酛を試みましたが、これでは自分の求める酒は実現できないと判断し、あくまで自らの酒の理想を追求するために生酛を守り続け、これが後に大七を大きく特色づけることとなりました。
「大七」という酒銘は、八代目の命名です。江戸時代の酒銘「大山」は全国に複数あったことから、これに替えて創業家にちなむ名を冠するのがよいと考え、七右衛門の七を組み合わせた「大七」とすることに決めたそうです。今も有名な「酒は大七」の沿線看板を設置し始めたのは昭和10年からで、早くからブランド確立に努力した進取の気性の持ち主でもありました。
八代目は青年時代に結核を病み、妻くにの助けを得て病床から酒造りを指揮していたこともありました。この体験から終生健康に気を配り、結果的に太田家最長命を誇ることになっています。壮年時代は町議会議員、二本松ロータリークラブ初代会長を務めるなど周囲の信望厚く、満91歳の天寿を全うするまで、終生酒造りに打ち込む人生でした。

九代目 太田七右衛門 精一

1927年(昭和2)生

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八代目が長く社長を務めたため、副社長として実質的に経営を支え、社長に就任したのは昭和57年です。この年、数年来の高級地酒ブーム、差別化商品時代の到来を見極めて「大七生酛」を発売し、成功を収めました。
地酒ブームが淡麗辛口の吟醸酒中心に進む中、九代目はあくまでも大七らしさ、生酛造りの良さを表現することを心掛け、着実に生酛の品質向上と技術開発に努めた結果、全国でも大七が生酛造りの代表銘柄と目されるまでに至りました。「⾆にものさしが付いている」と自称するほどの優れた利き酒能力が、常に安定した品質管理で、商品の信用を高めることに貢献しました。
九代目は華美を慎み、石橋を叩いて渡る堅実さで、規模を拡大しながらも無借金の健全経営を成し遂げています。動物や花を育てることをこよなく愛し、穏やかな人柄で親しまれました。二本松酒造組合理事長を務めました。

十代目 太田英晴

1960年(昭和35)生

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十代目の現社長は、県立福島高校から東京大学法学部に進み、酒蔵経営については国税庁醸造試験所での短期研修を経て、大七酒造に入社しました。そして平成9年、37歳で社長に就任しました。過去に(社)日本青年会議所酒類部会の第40代部会長(1999年)、そして現在は福島県酒造組合二本松支部長、二本松物産協会会長、安達間税会会長を務めています。
十代目は生酛造りをより洗練させ、世界の舞台に引き上げることに力を注ぎました。そのために超扁平精米技術や無酸素充填システムなどの革新的な技術開発を主導し、他方では木桶仕込みの復活や新たな和釜の鋳造など、伝統の深化にも取り組みました。また、2002年、創業250年の節目にあたり「手造りの殿堂」というべき新社屋の建設と、詳細な調査に基づく社史の刊行を行いました。
世界市場を見据えた、正統的生酛造りによる高級酒の開発は、国内外で高い評価を受け、欧米やアジアの二十を超える国々への輸出に至ると同時に、国内では、日本酒業界に生酛への再評価機運をもたらしました。
十代目の意欲的な経営は、「第三回ファミリービジネス大賞」優秀賞、「第一回ふくしま産業賞」最高位知事賞、「第七回ものづくり日本大賞」経済産業大巨賞を受賞しました。

歴代杜氏

佐藤與三郎(戦前)南部杜氏

酒造りのために神仏に祈りながら、昭和13年に第16回全国清酒品評会で最高首席優等賞=第1位を獲得し、全国に大七の名を高からしめた。

伊藤富治(戦中戦後)南部杜氏

戦時統制経済のもとでの酒造りを行う。

一之倉長吉(戦後復興期)南部杜氏

物不足に悩まされながらも品質は落とさず、全国新酒鑑評会で金賞獲得も。

伊藤勝次(昭和31年)南部杜氏

高度経済成長でマスプロダクションが進展し急速に伝統技術が失われる中で、生酛造りの孤塁を守り続けた。生酛造りの第一人者として、平成4年、日本醸造協会醸造技能者表彰、福島県卓越技能者表彰(「福島の名工」)。

金田一政吉(平成元年)南部杜氏

名工伊藤杜氏のもとで早くから頭役を務め、生酛造りの大七を継承した。数多くの名酒、人気銘柄を手掛けて活躍した。酒仕込み唄の名人でもあった。

佐藤孝信(平成9年)南部杜氏

頭役より昇格。独自の工夫とアイデアで醸造作業を改善し、研究室を活用しつつ品質の一層のレベルアップを目指して活躍中。全国新酒鑑評会の歴史上初めて、生酛造りの純米醸造による金賞を二度にわたって獲得し、鑑評会史に金字塔を打ち立てた。日本醸造協会醸造技能者表彰、福島県卓越技能者表彰(「福島の名工」)、厚生労働省「現代の名工」表彰、黄綬褒章。

精米部長

精米部長・尾形義雄(昭和52年)

扁平精米理論(齋藤富男氏)の実用化に取り組み、平成7年、大七独自の超扁平精米技術を完成させた。科学技術庁長官表彰、福島県卓越技能者表彰、日本醸造協会醸造技能者表彰、そして厚生労働省「現代の名工」表彰を、いずれも精米工として全国で初めて受けた。