シリーズ:コーボ君、歴史探訪

第7話 八代目七右衛門・後半生

コーボ 井戸爺さん!日本一になった大七の続きを教えてよっ?
井戸爺さん ハッハッハ。随分勢い込んで来たな。まあ、当時の八代目も同じ気持ちじゃったろう。 昭和十三年の全国酒類品評会で最高首席優等賞を獲得し、大七の名は天下に轟いた。販路は東北一円は勿論、酒の本場の関西まで進出し、『到る處絶讃を博してゐる』と本にも書かれておるぞ。 しかし皮肉な運命が待っておった。直後、日本が太平洋戦争に突入していったのじゃ。同年に国家総動員法が定められ、翌年からは米の配給制が始まって造石高は半分以下に減らされた。これからもっともっと良い酒で頑張ろうという八代目の夢は、わずか一年で露と消えてしもうた。
コーボ せっかくのチャンスだったのに、何て不運なんだろう!
井戸爺さん 否、灯は消えてはおらん。統制でがんじがらめに粗悪な酒造りを強いられた戦時下でも、八代目は必死に旨い酒を守ろうとした。自腹でこっそり闇米を買って原料を磨く足しにもした。日本一の誇りがそうさせたのじゃ。 そして戦争が終わると、さっそく戦時中諦めざるを得なかった生もと造りを復活させることに精魂を傾けた。それは敗戦後の日本が、皆貧しく、熟練した蔵人も絶えてしもうた中で、生半可なことではなかった。戦前まではまだ結構あった生もとの蔵が、戦後すっかり少なくなったことでそれは明らかじゃろう。 当時生もと造りを残しておったのは灘の銘醸家たちだけじゃったから、八代目は生もとの技を磨くため、毎年のように灘を訪ねては研究を重ねた。 戦後いち早く無添加の酒、今で言う純米酒に取り組み始めたのもこの頃のことじゃ。 やがて日本は少しずつ復興し、今度は高度経済成長期が到来した。
コーボ コウドケイザイセイチョウキだって?
井戸爺さん そうじゃ。日本が農業中心の国から工業の国に変わってな、大量生産でものが豊かに溢れ出した時代じゃ。酒蔵でもお酒の需要がどんどん増え、造るのが追いつかんほどじゃったのを覚えておる。 じゃが反面、古い伝統が切り捨てられてもいったのじゃ。灘の大蔵も四季醸造の近代工場に変わり、手間のかかる生もとは誰からも見向きもされんようになっていった。いつの間にか生もと造りは全国でわずか数蔵まで減ってしもうた。
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コーボ ふーん。その頃の大七は、どうしていたの?
井戸爺さん もちろん、孤軍奮闘、生もと造りを続けとったぞ。同時に時代に合わせて酒造りを拡大してもいった。いいかな、コーボ。いつの世も時代は変わるものじゃ。大事なものを守りながらも、化石にならんよう生き抜かにゃならん。 八代目は高度成長期を無駄にせんと酒蔵に投資する機会にすることで、次に飛躍する土台をつくった。そして見事、伝統的な生もとを今の商売と両立させたのじゃ。 山にある『酒は大七』の大きな看板を知っておろう。あれは昭和十年に福島県第一号のダットサンを買うたのが始まりで、これでもって数百も建てたものじゃが、八代目の進取の気性を現しておるな。 激動の人生じゃったが人との出会いにも恵まれ、享年93で大往生を遂げた。幸せな人生と言えるじゃろうのう。