シリーズ:郷土の宝物語

第2回「明治、人物伝」

コーボ 生もと君、僕達の古里二本松にも色々な偉人がいるんだ
生もと そうだね。幕末の戊辰戦争には敗れたけれど、そこから立ち上がって羽ばたいた人達がいた。先ずは霞ヶ城公園に銅像が立っている山田脩翁から紹介しよう。わが国最初の民間機械製糸工場の創始者だ
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コーボ 二本松製糸会社は世界遺産の富岡製糸場が出来た翌年、明治6年創業だ。しかも日本で最初の株式会社なんだね。最盛期には単身渡米してニューヨーク支店を開設し、大成功を収めてる。武士から世界のアントレプレナー(起業家)へ。ほんとにスゴイや
生もと うん。敗戦で焦土となった郷里の復興に大きな貢献をした。生糸に目を向けたのには三菱財閥の祖、岩崎弥太郎の助言が、株式会社方式の採用には渋沢栄一の後押しがあったのではとも言われている。地方にいながら、日本の最先端とつながっていたんだね
コーボ 製糸会社設立は全国ニュースになり、毎日大勢の見学者が押し寄せたんだって。明治天皇東北巡幸もあって、大変な評判だったみたいだ
生もと 品質改善にも絶えず努力していたし、政治家としても町に尽くした。山田翁の没後、工場は火災で全焼して失われたけど、その功績は偉大だな
コーボ 生もと君、学問の世界にも偉大な先人がいるよ。世界的な歴史学者で日本人初のイェール大学教授になった朝河貫一(あさかわかんいち)博士だ。しかも象牙の塔の中の学者ではなく、日本の外交に積極的に提言した
生もと そう。博士が卒業した今の安積高校には、『朝河桜』が遺っている。ほら、博士が英和辞典を毎日2頁ずつ暗記しては頁を破って飲み込み、最後に革表紙だけ桜の木の根元に埋めたという桜だよ。秀才で“朝河天神”とも呼ばれた
コーボ そして早稲田大卒業後、大隈重信(おおくましげのぶ)や徳富蘇峰(とくとみそほう)らの支援で米国留学し、ダートマス大学を首席卒業、イェール大大学院を経て、見事教授になった
生もと ほんとに見事なのはこれからさ。日露戦争までは日本の立場を擁護していたけど、その後の日本の姿には警鐘を鳴らし続けた。そして日米開戦の直前には、戦争を回避するためルーズベルト米国大統領から昭和天皇への親書を送ることを働きかけ、その草案を書いた。結果は実らなかったけれど、平和を提唱し、祖国日本のために尽くしたんだ。イェール大にはその業績を称えて朝河貫一庭園がある
コーボ すごい先人達だなあ!もっと有名にならないのが不思議だよ。勿論有名な人もいる。二本松と言えば『智恵子抄』の高村智恵子サン!
生もと 智恵子の実家は二本松の裕福な造り酒屋、長沼家だった。才媛で日本女子大を卒業し、当時では珍しい女流洋画家として東京に残り、創刊されたばかりの雑誌『青鞜(せいとう)』の表紙絵を描いたりした
コーボ そして高村光太郎と出会うんだね!智恵子は実家の倒産や絵画制作の行き詰まりから精神を病んでしまうけど、光太郎との美しい純愛の物語は、『智恵子抄』で不朽になった
生もと 智恵子の『ほんとの空』がある二本松も有名になったね。コーボ君、知ってるかい?岩下志麻さん主演の映画『智恵子抄』では、智恵子の実家として大七の土蔵が撮影されて登場しているんだよ
コーボ 本当に?知らなかったよ
生もと 智恵子記念館は観光スポットになっている。二本松を訪れたら、行ってみてほしいな