シリーズ:郷土の宝物語

第9回「二本松藩のエピソード/1」

コーボ 二本松市の宝物といったら、今も残るお城と殿様の歴史だね。生もと君は18代丹羽長聰(にわながとし)当主にお話を伺ったんだって?
生もと ウン!貴重なお話を色々お聞きしたよ。まず丹羽家の初代は、戦国時代の丹羽長秀侯
コーボ ああ、教科書にも載ってる有名な武将だね!
生もと そう。織田信長に仕えて手腕を発揮し、織田四天王のひとりと言われ、信頼が厚かった。信長の養女(姪)を妻に迎えたほどだ。信長の没後は豊臣秀吉にも重んじられた。越前から若狭、加賀にかけて123万石の大名となった
コーボ すごいや。大大名だ
生もと ところが二代、丹羽長重侯は123万石からわずか4万石に落ちるなど、浮沈の激しいドラマチックな生涯となった
コーボ ええ!どうしてそんなことになったの?
生もと 家督を継いだのが弱冠15歳の時だったから、秀吉は未熟をいいことに何かと言いがかりをつけて領地を召し上げたんだ。そして関ヶ原の合戦で東西両方に付いたため、戦後に改易されて、一介の素浪人まで落ちた。高輪に蟄居(ちっきょ)させられたそうだ
コーボ ふーん。大大名から素浪人かあ。とても耐えられないね
生もと そうだろうね。そんな辛酸をなめた経験から、長重侯は世間を良く識ることになり、徳川二代将軍秀忠に、指南役的存在として可愛がられた。すぐれた築城技術を初代から受け継いでいたので、常陸国の古渡(ふっと)で一万石、大坂の陣で武功を上げたあと二万石になり、さらには海路の入り口として重要な棚倉で五万石に、そして東北の入り口となる要衝の地、白河で十万七百石を任された。これは徳川将軍にとって外様大名の伊達家へ用心の意味もあったらしい
コーボ 素浪人から十万石の大名へ。これもものすごい返り咲きだ
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生もと 全くだね。それも城造りの名人だったお陰だろう。白河小峰城の時は、良い石工を知っていて、その石工を使って見事な石垣を築いた。そのせいで東日本大震災の際も、この石垣だけは崩れなかった
コーボ なるほど。職人の腕前まで把握してたんだね
生もと そしていよいよ三代、丹羽光重侯が二本松の初代藩主となる。十万七百石の家臣を率いてやって来て、手狭だった城を増築し、箕輪門を築いた
コーボ 二本松の骨格が、この時に出来たんだね
生もと うん。城だけでなく町割、堀割、みんな光重侯の時代だ。コーボ君の大好きな提灯祭りも、光重侯が民の敬神の念と平安のために興したんだよ
コーボ そうだったのか。光重様、ありがとうございます!
生もと 光重侯にはこんなエピソードがある。光重侯の姉の孫が、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)だったんだ。“松の廊下”事件の速馬が二本松藩に到着するとすぐに城門を閉め提灯を点け、徳川家に恭順の意を示し、陰で光重侯は『なぜ斬りつけたのか。突けば仕留められたものを! 』と怒り心頭でキセルを煙草盆に打ち付けたそうだ。二本松藩の剣術は『突き』が基本なんだ。そして何と、そのへこみのある煙草盆を、御子孫の長聰氏は山中湖の別荘でそれとは知らずに見つけた。捨てようかと思ったけど、二本松歴史資料館の学芸員に見せたら、『あの話は本当だったんですね』と驚かれたそうだ
コーボ うわー、歴史って面白いね。二本松藩のエピソードの続きは、次回も聞かせてね